私が幼年期から住んでいた家は、山間にポツンと建つ平屋の雑貨屋さんでした。建物も粗末で間取りは昔ながらの田んぼの田の字配置、6帖間が4部屋だけの平屋であります。4部屋の中の1つは雑貨たばこ兼駄菓子売り場、1つは台所、1つはお婆ちゃんの部屋、残り一つは父母と私の部屋という状態でした。やがて家族(弟)が増えた頃に5帖くらいの部屋(現在でいうイメージは物置のような)を増築し、家族5人で暮らしていました。当時はカラーテレビが家の中にあるような時代ではありません。私はカラーテレビが普及し始めた頃、最初にテレビを購入された父のお客さんのお宅へ連れて行ってもらいました。カラーで見たテレビの映像に衝撃を受けたことは今でも記憶に残っています。父もいつか我家にもカラーテレビを!と、当時は仕事にも頑張ってくれていたのかもしれません。
いつかは蒸気機関車の運転手
幼少の私は、今の小さな子供達が車や電車を好きなように、大きく力強い汽車が好きでした。当時、山陰線や倉吉線(廃線)で走る動力車は蒸気機関車も主流で、その力強く客車を引っぱる蒸気機関車がめちゃくちゃ好きでした。いつかは蒸気機関車の運転手になりたいと小学校の作文に書いたことも覚えています。
父は大工
説明が遅れましたが、父は大工をやっておりました。毎日朝早くから夜遅くまで働き、小さいながらも若くして会社を設立しました。私が中学1年生の頃の出来事です。
お客様の新築を祝う宴があり、棟梁を務めた父に連れられて、私もお招きいただきました。宴が終わりその帰り際、施主様ご夫婦が何度も何度も、『ありがとうございます。ありがとうございます。親からも親戚からもいい家だと褒めてもらっています。本当にありがとうございます。』とお礼を重ねて言われている父の姿を見て、私も誇らしく思いました。
こんなにもお客様が喜んでくださるのなら…大工って凄いなぁ…今思えば蒸気機関士へのあこがれから建築という事へ興味が移り変わって行ったのは、この時からだったのかもしれません。
父から大工になるのは駄目だといわれ…
進路を決めなければならない中学3年の時です。父に『俺は大工になりたい 』と言いました。父の返事は『 駄目だ 』と。そして、『まず、大工をやるのなら大きな建物とかも考えられる人(設計士)になりなさい 』と言われたのです。その時の父の気持ちの中には、建物づくりに対していろんな思いや望みがあったのだと想像します。
高校大学と建築関係を学び都会の建築会社で10年間働いておりました。当時の都会はバブル全盛期で建築費も人件費もどんどん高騰高額になっていきました。1LDKのマンションが○億円!? 建築費だけではありません。飲み会の帰りに1万円を高々と上にあげ、タクシーにアピールしながら列を作るタクシーを拾う客の様相は、バブル時代を象徴する回顧ニュースに出るくらい有名な話題でした。(私は若く、飲み会へも上司に連れて行ってもらえるぐらいで、もちろんそんなことは一度もやったことがありません) やがてそのバブル時代も終わりを迎えます。父が還暦になる前に田舎に帰りたいという思いとバブル崩壊が重なりました。バブル崩壊の影響は地方へも徐々に徐々に押し寄せていきます。田舎に帰る決心した時には企業、会社はおろか銀行、証券会社などが次々と倒産していきました。都会から地方へ倒産企業が増えていく波に乗って田舎に帰ってきたような気がします。
地元の建設業界の景気も底です。何社もが廃業していきました。当時の父の会社も同様に大変でした。やがて、バブル崩壊から【ローコスト住宅】を取り扱うメーカーが全国展開を始め、我々の地方にも進出してきます。ハウスメーカーの波に押され地元工務店の仕事量はだんだんと減っていきました。 また、バブル高金利時代(12%前後)のつけもやってきます。ローンが支払えなくなり、せっかく購入した家を手放す人も増えてきました。
『このままじゃいけない。何とかしなきゃいけない。ハウスメーカーに勝負できる物を作らなければいけない。』 何をすればいいのか恥ずかしながらわかりませんでしたが、何かをしないといけないことだけはわかりました。何か…親に機関車を見に連れて行ってもらうだけでも幸せだったあの家族の空間。そう、【笑いの絶えない家づくり】をこれからするのだと心に決めた時期でした
当時、父の会社ではそれまでと違う事業タイプを計画し展開するにはお金がありません。
金融機関にお金を借りるため『俺の命はいくらでしょうか?』ともすがった思い出があります。当然借りられることはできませんでしたが、金融機関のひとつだけが親身になり相談に乗ってくれました。私の計画と展望、そして私の想いを理解していただけました。おかげでハウスメーカーに対抗できる商品、タカノホームをつくりあげ事業展開することができたのです。私はこの時、父の会社を引き継ぎ代表取締役社長に就任しました。
残念ながら私は大工になりませんでした。
また、当時お金があったら建設業と違う事業展開もあったかもしれません。ただ私がやってきたことには後悔はしていません。全てはあの時に感じた【笑いの絶えない家】への想い、そこで暮らす家族の為への笑いの絶えないの家づくり!この思いがいつも自分を奮い立たせます。家づくりの思いは誰にも負けません。
この地域の住宅は木造がほとんどです。私は大工ではないですが、父の背中、父の弟子達の匠技を観てきました。良い仕事、悪い仕事はハッキリと判断できます。あなたのその腕は誰にも誇れる腕だと、【笑いの絶えない家】づくりは、あなた達大工の技が基本なのだと何度も職人に言い聞かせました。プロ意識のプライドを持ち地域職人で作り上げる。そんな家を今でも試行錯誤を重ねながら継続しています。
いい家とはなんだ?
『いい家を作ってください』この願いにいつも『まかせて下さい』と返答します。ただ『いい家とは何だろう?』という疑問をその度に考えます。構造的に強い家?断熱の優れた家?自然の風がたくさん入ってくる家?リビングが広い家?2Fにもトイレがある家?…答えはいつになってもでてきません。デザイン一つにしてもいいと思う人があればそうでない人もいる。家の価値観はそれぞれ違うと信じてやっています。
本当にいい家とは
愛する家族の為に念願のマイホームを建てたいと思う人に、四季を問わず笑いの絶えない家にしてあげたい。そんな家がその家族にとっていい家なのだと信じている私は間違っているのでしょうか? 私は家族の笑顔の絶えない よい家をつくり続けたいのです。
愛する家族の為に一生懸命働いて貯めたお金を私たちに託す。それに答えなければいけません。それが私の使命です。高級住宅やこだわりの家をつくるのが私の仕事ではありません。そのような方はどうかよその会社で建ててください。
いろんなメーカーがありいろんな工務店もあり迷われるかもしれません。ただこれだけは忘れないで下さい。どんなに高級住宅でもどんなに構造が強いと言われても家を作り上げていくのは大工なのです。悪い大工がいるとは考えたくありませんが、こんなことがありました。工事途中にお施主様が契約解除されて弊社へ工事依頼がありました。細かい内容は記しませんが、素人が見ても?マークが頭にいくつも浮かんでくるような物件でした。お施主様は悲しんでおられましたが、それ以上にプロとして素人が見ても疑問を抱くような大工がいることに悲しい思いをさせられました。
我々も完全ではありません。日々勉強をして技を磨き精進していかなくてはなりません。私も父の背中を見て育ち熟練された大工がいた環境の中で勉強をしてまいりました。伝統建築も次の世代にも受継いでいかなくては【笑いの絶えない家】づくりは出来ません。
教えることも一つ、考えさせることも一つ。
ある現場で業種は大工職人ではありませんでしたが、「それを自分の家でされたら許せるか?」と問いました。その時は何も言いませんでしたが、2日目からその職人は来なくなりました。職人不足で工期も厳しい状況でしたが、そんな人には家づくりをしてほしくない!! この件でも後悔はまったくしていません。全ては愛する家族がいつも笑顔でいる家づくりに繋がっているからなのです。
弊社では【安心で確かな家づくり】を経営理念に営んでいます。前出に記したように完全といわれるような家はありません。だからといって家づくりはやめません。家づくりが好きな職人が集まり、今でも悩みながら家づくりをしています。私たちは家づくりが大好きなのです。
この強者たちが集まり、愛する家族がいつも笑顔でいる家、安心安全で確かな家、【安心で確かな家づくり】を提供しています。